【ケーススタディ】医薬品製造における脱炭素化:エネルギー最適化とサプライヤー連携によるScope 1, 2, 3削減事例
はじめに
医薬品産業は、人々の健康と福祉に貢献する一方で、その製造プロセス、研究開発活動、および広範なグローバルサプライチェーンにおいて、相当量の温室効果ガスを排出しています。特に、厳格な品質・規制要件や、予測が難しい研究開発の性質、多層的なサプライチェーンは、脱炭素化を推進する上での複雑な課題となっています。
本稿では、こうした特有の課題を抱える医薬品産業において、包括的な脱炭素戦略を実行し、具体的な成果を上げたグローバル製薬大手A社のケーススタディを深く掘り下げます。A社がどのようにして製造拠点、研究開発、サプライチェーン全体で排出量削減を実現したのか、その具体的な取り組み内容、定量的な成果、直面した課題と解決策、そして他の企業への戦略的な示唆について解説します。
事例の概要:グローバル製薬大手A社の脱炭素戦略
グローバルに事業を展開する製薬大手A社は、持続可能性を経営戦略の核に位置づけ、2040年までにバリューチェーン全体でのカーボンニュートラル達成を目指す野心的な目標を設定しました。この目標達成に向け、同社は以下の3つの柱を重点領域として取り組みを進めました。
- 自社事業所(Scope 1 & 2)の排出量削減: 主に製造拠点と研究開発施設におけるエネルギー効率化と再生可能エネルギーへの転換。
- サプライチェーン(Scope 3)の排出量削減: 原材料調達、物流、製品の使用・廃棄など、バリューチェーン全体での排出量可視化と削減。
- 製品ライフサイクル全体での低炭素化: 研究開発段階からの環境負荷評価と、より環境配慮型な製品・パッケージ開発。
本ケーススタディでは、特に取り組みの難易度が高いとされる製造プロセスとサプライチェーンにおけるA社の具体的なアプローチに焦点を当てます。
具体的な取り組み内容とプロセス
A社は、脱炭素目標達成のために、技術導入、プロセス改善、ステークホルダーとの連携を組み合わせた多角的なアプローチを展開しました。
1. 製造拠点におけるエネルギー効率化と再エネ導入
- 高効率設備への投資: 主要な製造拠点において、老朽化したボイラー、チラー、空調設備(HVAC)を高効率な最新型設備に更新しました。特に、医薬品製造に不可欠なクリーンルームの空調システムについては、デマンド制御やゾーン管理を導入し、必要最低限のエネルギー使用量で維持できる仕組みを構築しました。
- 製造プロセスの最適化: 製造工程における加熱・冷却プロセスを見直し、廃熱回収システムを導入しました。特定の製品製造における晶析や乾燥といったエネルギー多消費プロセスについては、技術チームとエンジニアリングチームが連携し、より少ないエネルギーで同等の品質を維持できる新しい手法や設備(例:マイクロ波乾燥、膜分離技術)の導入を検討・実行しました。
- エネルギーマネジメントシステムの活用: 各製造拠点にIoTセンサーを設置し、エネルギー使用量をリアルタイムで収集・可視化するシステムを導入しました。このデータに基づき、非効率な設備の特定、運転スケジュールの最適化、エネルギー漏れの検出などを継続的に実施しました。
- 再生可能エネルギーへの転換: 各国の市場環境を考慮し、大規模なバーチャルPPA(電力購入契約)を締結することで、購入電力の再生可能エネルギー比率を大幅に引き上げました。また、一部の自社所有地の広い拠点では、オンサイトでの太陽光発電設備を設置し、自家消費を最大化しました。
2. 研究開発施設における排出量削減
- ラボ設備の効率化: 研究開発施設に導入される新規機器に対して、エネルギー効率基準を設けて選定しました。既存機器についても、アイドル時の電力消費を削減するための設定変更や、使用状況に応じた集約・共有を促進しました。
- 試薬・廃棄物の管理最適化: 研究活動に伴う試薬の使用量・種類をデータで管理し、無駄の削減や環境負荷の低い代替品の利用を推奨しました。また、研究活動で発生する廃棄物の分別・リサイクルを徹底し、焼却・埋め立て量を削減しました。
- 建築・改修時の設計ガイドライン: 新設・改修される研究施設の設計段階から、断熱性能の向上、高効率照明、自然換気システムの導入など、エネルギー効率と環境負荷低減を考慮したガイドラインを適用しました。
3. サプライチェーン全体(Scope 3)での連携と削減
- サプライヤーの排出量可視化と評価: 主要な原材料サプライヤー、製造受託業者(CMO)、物流パートナーに対して、CDPサプライチェーンプログラムなどを通じた排出量データの開示を求めました。収集したデータに基づき、サプライヤーを環境パフォーマンスによって評価し、調達基準に反映させる仕組みを構築しました。
- サプライヤーとの協働: 排出量が多いと特定されたサプライヤーに対して、A社の専門家チームがエネルギー効率化や再生可能エネルギー導入に関するワークショップや技術支援を提供しました。共同で削減目標を設定し、定期的に進捗を確認するエンゲージメントプロセスを強化しました。
- 物流の低炭素化: 輸送手段のモーダルシフト(航空から海上・鉄道へ)、配送ルートの最適化、低排出ガス・電動車両の導入などを推進しました。また、物流パートナーにも脱炭素への取り組みを求め、協働して排出量削減に取り組みました。
- 製品ライフサイクルアセスメント(LCA)の活用: 研究開発段階から製品のライフサイクル全体(原材料調達、製造、輸送、使用、廃棄)における環境負荷を評価するLCAを実施し、設計や原材料選定において低炭素な選択肢を優先しました。
定量的な成果
これらの取り組みの結果、グローバル製薬大手A社は以下の定量的な成果を達成しました。
- Scope 1 & 2 排出量: 基準年(2019年)と比較して、自社事業所からの温室効果ガス排出量(Scope 1 & 2)を5年間で25%削減しました。これは主にエネルギー効率化と再生可能エネルギー購入電力への切り替えによるものです。
- エネルギー消費量: 製造拠点全体のエネルギー消費量を、生産量あたりの指標で見ると18%削減しました。特にエネルギー多消費型の特定製造プロセスでは、最大30%のエネルギー消費量削減を実現しました。
- Scope 3 排出量: サプライチェーン全体(Scope 3)からの排出量についても、主要カテゴリー(購入した物品・サービス、輸送・流通など)で可視化が進み、特に主要原材料サプライヤーにおける排出量が平均で7%削減されるなど、初期的な成果が見られました。目標達成に向けた削減率はまだ道半ばですが、可視化とエンゲージメントの強化により、削減に向けた基盤が構築されました。
- コスト削減: エネルギー効率化投資により、年間約X億円のエネルギーコスト削減を達成しました。再エネPPA契約についても、長期的な視点で見ると電力コストの安定化に寄与しています。
- ブランド価値と投資家評価: 脱炭素への積極的な取り組みは、企業のブランドイメージ向上に貢献し、環境・社会・ガバナンス(ESG)投資を行う投資家からの評価を高める結果となりました。
直面した課題と解決策
A社は脱炭素戦略の推進において、医薬品産業特有の、あるいは一般的な企業活動における様々な課題に直面しました。
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課題1:厳しい規制・品質要件とプロセス変更の両立 医薬品製造においては、製造プロセスの変更が製品の品質や安定性に影響を与えないよう、極めて厳格なバリデーション(検証)が求められます。新しい省エネ技術やプロセスの導入は、このバリデーションプロセスを複雑化させ、時間とコストを要する可能性がありました。
- 解決策: 早期からの規制当局との対話、リスク評価に基づいた段階的な技術導入計画の策定、そして品質部門とエンジニアリング部門の密接な連携による徹底したバリデーションの実施を通じて、規制コンプライアンスを維持しつつプロセス変更を進めました。また、サプライヤー選定においても、環境性能だけでなく、品質管理体制やバリデーションへの対応能力を重視しました。
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課題2:複雑かつ多層的なグローバルサプライチェーンにおけるScope 3データ収集 数万社に及ぶグローバルなサプライヤーネットワークから、信頼性の高い排出量データを収集することは非常に困難でした。特に、中小規模のサプライヤーや、A社にとって間接的なサプライヤー(Tier 2以降)からのデータ取得は大きな壁となりました。
- 解決策: CDPやエコバディスといった第三者プラットフォームを活用し、サプライヤーに対して排出量データ開示を組織的に依頼しました。データ開示が難しいサプライヤーに対しては、業種ごとの平均排出量データや、簡便な排出量計算ツールの提供、データ収集に関する研修会を実施するなど、データ提供を支援する体制を整備しました。また、Tier 1サプライヤーに対して、その先のサプライヤーへのエンゲージメントを促すよう契約に盛り込むなどの工夫も行いました。
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課題3:研究開発活動の予測困難性に伴う排出量管理の難しさ 新しい医薬品の研究開発は、成功確率が低く、その進捗や必要な実験プロセスが事前に予測しにくい性質を持ちます。このため、必要なエネルギーや資源の使用量を計画的に削減することが難しい側面がありました。
- 解決策: 研究開発部門内にサステナビリティ担当者を配置し、研究者との日常的なコミュニケーションを通じて排出量削減の意識を高めました。新規プロジェクトの計画段階で環境影響評価を組み込み、代替試薬の検討や実験プロトコルの効率化を促しました。また、データ管理システムを導入し、試薬や消耗品の在庫を最適化することで、無駄な購入や廃棄に伴う排出量を削減しました。
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課題4:初期投資コストの高さ 高効率設備への更新や再生可能エネルギー導入、サプライチェーン連携のためのシステム構築には、相当額の初期投資が必要でした。
- 解決策: 長期的な視点での投資回収計画を作成し、省エネルギーによる運用コスト削減効果を定量的に示すことで、経営層の承認を得ました。また、グリーンボンドの発行やサステナビリティ・リンク・ローンといったグリーンファイナンスを積極的に活用し、資金調達の多様化とコスト抑制を図りました。さらに、政府や自治体の補助金制度も有効に活用しました。
成功要因と戦略的示唆
グローバル製薬大手A社が脱炭素戦略で成果を上げることができた要因は複数ありますが、特に以下の点が重要であったと考えられます。
- 経営層の強力なコミットメントとリーダーシップ: CEO直轄のサステナビリティ委員会を設置するなど、経営層が脱炭素を最重要課題の一つと位置づけ、明確な目標とリソース配分を示したことが、社内全体の推進力を生みました。
- 脱炭素目標と事業戦略の統合: 脱炭素を単なる環境対応ではなく、オペレーション効率の向上、サプライチェーンリスクの低減、ブランド価値向上、そして長期的な企業価値創造に繋がるものとして捉え、各事業部門の戦略と密接に連携させました。
- データに基づいた意思決定と継続的な改善: エネルギー使用量や排出量データを収集・分析し、客観的な根拠に基づいて優先順位付けや施策の効果測定を行いました。これにより、最も効果的な分野にリソースを集中させ、PDCAサイクルを回すことが可能になりました。
- サプライヤーとのパートナーシップ構築: サプライヤーを単なる取引先ではなく、共通の目標を持つパートナーと位置づけ、情報共有、能力向上支援、共同での課題解決に取り組みました。規制要件の厳しい業界においては、サプライヤーとの信頼関係と連携体制がScope 3削減の鍵となります。
- クロスファンクショナルな連携: 製造、研究開発、調達、エンジニアリング、品質保証、サステナビリティといった部門が部門間の壁を越えて密接に連携し、それぞれの専門知識を結集して課題解決にあたりました。
ターゲット読者であるサステナビリティ推進部門の責任者や担当者の方々にとって、A社の事例は以下の点で戦略的な示唆を与えます。
- 自社の特殊性を理解した戦略設計: 医薬品産業のように厳格な規制や特有のプロセスを持つ場合でも、事業特性を深く理解し、それを踏まえた上で脱炭素目標と具体的な施策を設計することが不可欠です。規制当局との早期対話や社内品質部門との連携は、プロセス変更を伴う脱炭素施策を進める上で特に重要となります。
- Scope 3削減におけるエンゲージメントの深化: 多層的なサプライチェーンを持つ企業においては、データ収集の困難さは共通の課題です。A社のように、第三者プラットフォームの活用に加え、サプライヤーへの能動的な支援や協働プログラムを通じて、エンゲージメントを深化させることがScope 3削減の成功確率を高めます。
- データ活用の基盤構築: エネルギーや排出量データの収集・分析・可視化は、効果的な脱炭素戦略立案と実行の生命線です。初期投資を要しても、信頼できるデータ基盤を構築し、データに基づいた意思決定を行う体制を整備することが重要です。
結論
グローバル製薬大手A社のケーススタディは、医薬品産業という規制が厳しく複雑な分野においても、明確な目標設定、経営層の強力なリーダーシップ、部門横断的な連携、データ活用、そしてサプライヤーとのパートナーシップ構築といった包括的なアプローチを取ることで、Scope 1, 2, 3を含むバリューチェーン全体の脱炭素化を着実に推進できることを示しています。
特に、製造プロセスにおけるエネルギー効率化と再エネ導入、そして複雑なサプライチェーンにおけるデータ可視化とサプライヤーエンゲージメントは、多くの企業にとって共通の課題であり、A社の経験はその解決に向けた具体的なヒントを提供しています。
脱炭素経営は、もはや単なる環境対応ではなく、企業の持続的な成長に不可欠な要素です。A社の事例は、困難な課題に対しても戦略的に取り組み、事業競争力の強化と環境負荷低減の両立を目指すことの重要性を再確認させてくれます。今後、さらに多くの企業がA社のような先進事例に学び、それぞれの事業特性に応じた実践的な脱炭素戦略を加速させていくことが期待されます。