非財務情報開示強化を通じた脱炭素経営の深化:戦略実行とバリューチェーン連携における実践事例
はじめに:非財務情報開示がもたらす脱炭素経営への影響
近年、企業に対する気候変動関連の情報開示要求は急速に高まっています。TCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)提言に基づく開示は事実上のグローバルスタンダードとなりつつあり、国際的なサステナビリティ開示基準であるISSB(国際サステナビリティ基準審議会)基準も発行されました。これらの開示は単に規制対応としてだけでなく、企業の脱炭素戦略を具体化し、社内外のステークホルダーとの連携を強化するための強力なツールとなり得ます。本稿では、非財務情報開示の強化が、企業の脱炭素経営の深化、特に戦略実行とバリューチェーン全体での連携において、どのように活用されているか、先進企業の事例を通じて解説します。
事例に学ぶ:情報開示を戦略ツールとして活用するプロセス
多くの先進企業では、TCFDやISSB準拠に向けた開示プロセスを、単なる情報収集・報告作業ではなく、経営戦略そのものを見直す機会として捉えています。ここでは、特定の企業名を挙げる代わりに、複数の先進的な取り組みを統合した事例としてそのプロセスを詳述します。
具体的な取り組み内容とプロセス
あるグローバル製造業A社は、TCFD提言に基づき、気候関連リスクと機会の特定、シナリオ分析、目標設定、リスク管理、指標・目標に関する開示を強化しました。そのプロセスは以下の通りです。
- 推進体制の構築: サステナビリティ部門が主導し、財務、IR、経営企画、リスク管理、各事業部門の責任者からなる横断的なプロジェクトチームを組成しました。取締役会への定期的な報告体制を構築し、トップマネジメントの関与を確保しました。
- 気候関連リスク・機会の特定と評価: 物理的リスク(例:異常気象による工場停止)と移行リスク(例:炭素税導入、市場の変化)を詳細に特定・評価しました。同時に、低炭素技術への投資機会、新たな環境配慮型製品・サービスの市場拡大機会なども洗い出しました。
- シナリオ分析の実施: 産業革命前からの気温上昇1.5℃、2℃、および4℃シナリオに基づき、特定したリスク・機会が自社の事業に与える財務的影響を定量的に評価しました。この分析には外部の気候変動専門機関の協力も得ました。
- 脱炭素目標の見直し・具体化: シナリオ分析の結果、既存のCO2削減目標(例:2030年までに2013年比でScope 1+2排出量を30%削減)では不十分であると判断。科学的根拠に基づいた目標(SBT:Science Based Targets)である「2030年までにScope 1+2を50%削減、Scope 3を30%削減、2050年ネットゼロ」へと目標を上方修正し、承認を得ました。特に、Scope 3排出量の把握と削減目標設定には、後述するサプライヤーとの連携が不可欠でした。
- Scope 3排出量算定の深化とバリューチェーン連携:
- サプライヤーに対する排出量データ提供の要請を強化し、データ収集プラットフォームを導入しました。
- 主要サプライヤーに対しては、脱炭素化の重要性に関する説明会を実施し、CO2排出量算定方法や削減手法に関する研修プログラムを提供しました。
- 共同での省エネ診断や、再エネ導入に関する情報提供・支援を行いました。
- 製品カテゴリ別PCD(Product Carbon Footprint)算定の精度向上に取り組み、設計段階からの低炭素化を促進しました。
- 移行計画(Transition Plan)の策定と開示: 高い脱炭素目標の達成に向けた具体的なアクションプラン、必要な投資額、ロードマップ(技術開発、設備投資、サプライチェーンエンゲージメントなど)を詳細に策定し、その主要部分を開示しました。これにより、投資家に対して目標達成への蓋然性を示すことができました。
定量的な成果
この一連の開示強化プロセスを通じて、A社は以下のような定量的な成果を上げています。
- 脱炭素目標の大幅な上方修正: Scope 1+2排出量削減目標を+20%、Scope 3目標を+30%それぞれ引き上げることができました。
- 関連投資額の増加: シナリオ分析と移行計画に基づき、脱炭素関連の設備投資(省エネ機器導入、自家消費型太陽光発電設置など)やR&D投資(新素材開発、リサイクル技術向上など)に今後5年間で合計約300億円を投資することを決定しました。これは開示強化前の計画比で約50%の増加です。
- Scope 3データ収集率の向上: 主要サプライヤーの約80%からScope 3排出量データの提供を得られるようになり(開示強化前は約40%)、排出量のボトルネック特定に繋がりました。
- サプライヤーとの共同削減プロジェクトの開始: サプライヤー数社と共同で、特定の部品製造プロセスにおける省エネ・再エネ導入プロジェクトを開始し、既に年間数百トンのCO2削減効果が見込まれています。
- 投資家からの評価向上: 主要なESG評価機関における気候変動分野のスコアが向上し、エンゲージメント機会が増加しました。グリーンボンドの発行も成功し、合計約200億円の資金調達を実現しました。
直面した課題と解決策
取り組みを進める上で、A社は以下のような課題に直面しました。
- Scope 3データ収集の困難性: 特に海外の小規模サプライヤーからの正確なデータ収集が難航しました。
- 解決策: クラウドベースのデータ収集プラットフォームを導入し、多言語対応や簡便な入力インターフェースを提供しました。また、サプライヤー向けにオンライン説明会や個別相談窓口を設置し、データ提出のメリット(例:A社との取引継続・拡大)を丁寧に説明しました。
- シナリオ分析と財務影響評価の複雑さ: 気候変動シナリオと自社事業への影響を繋げ、財務的影響を評価するプロセスが難しく、社内だけでは専門知識が不足していました。
- 解決策: 気候変動リスク評価と財務モデリングの専門知識を持つ外部コンサルタントを活用しました。これにより、分析の質と信頼性を向上させることができました。
- 社内関係部署間の連携不足: 事業部門は日々の業務に忙しく、サステナビリティ部門からのデータ提供やヒアリングへの協力が遅れることがありました。
- 解決策: 横断プロジェクトチームの権限を強化し、各部門の目標設定に気候変動対応への貢献度を組み込むことを検討しました。取締役会からの定期的な進捗確認も、各部門の意識向上に繋がりました。
- 移行計画の実現可能性に対する懸念: 高い目標設定に対して、必要な技術や資金の確保、市場の変化への対応など、計画の実現性について社内で懸念の声が上がりました。
- 解決策: 移行計画を単なる報告資料ではなく、具体的な投資判断や技術開発計画に紐づけて議論する場を設けました。ブレークスルー技術への投資判断や、リスク分散の必要性についても議論を深めました。
成功要因と戦略的示唆
A社の事例から、非財務情報開示を脱炭素経営深化に繋げるための成功要因と、他の企業への戦略的示唆が得られます。
- 成功要因:
- トップマネジメントの強いコミットメント: 開示を単なる形式ではなく経営課題と位置づけたこと。
- 部門横断的な推進体制: 財務、事業、サステナビリティが連携し、専門知識を結集したこと。
- 開示プロセスを通じたリスク・機会の「見える化」: シナリオ分析を通じて、気候変動が事業に与える潜在的な影響を具体的に把握し、社内の危機感を醸成できたこと。
- Scope 3への積極的な取り組み: バリューチェーン全体での排出量削減が不可欠であることを認識し、サプライヤーエンゲージメントに注力したこと。
- 移行計画の策定と透明性の高い開示: 目標達成に向けた具体的な道筋を示すことで、社内外からの信頼を獲得したこと。
- 戦略的示唆:
- 非財務情報開示は、単なる情報報告義務ではなく、自社の気候関連リスク・機会を深く理解し、脱炭素目標を戦略的に設定・修正し、具体的な移行計画を策定するための重要なツールとして活用すべきです。
- Scope 3排出量の把握と削減には、サプライヤーとの連携が不可欠です。開示プロセスを通じてサプライヤーとの対話を強化し、共同での削減プログラムを検討することが有効です。
- 非財務情報(特に気候関連)と財務情報の統合的な管理・開示は、社内外の意思決定の質を高め、リスク管理を強化し、新たなビジネス機会を創出する基盤となります。
- 開示情報の信頼性を高めるために、第三者保証の活用や、データ収集・管理体制の強化が重要です。
結論:開示は脱炭素経営の実行力を高める
非財務情報開示の強化は、単に規制に対応するだけでなく、企業の脱炭素経営をより深く、具体的に実行するための強力なドライビングフォースとなります。リスク・機会の分析から目標設定、移行計画策定、そしてバリューチェーン全体での協業に至るまで、開示プロセスは社内外の行動変容を促します。今後、ISSB基準への対応などが進む中で、非財務情報開示を戦略的に活用できる企業が、脱炭素社会への移行期において競争優位性を確立していくと考えられます。サステナビリティ推進担当者の皆様にとって、情報開示は経営層や事業部門を巻き込み、脱炭素戦略を実行可能な計画へと落とし込むための重要な機会となるでしょう。