カーボンプライシングを社内導入:戦略策定から効果測定までの具体的なプロセスと効果事例
はじめに:社内カーボンプライシングの目的と重要性
グローバルで脱炭素化への圧力が高まる中、企業経営における気候変動リスクと機会への対応は不可避となっています。パリ協定の目標達成に向け、多くの企業がScience Based Targets(SBT)に沿った野心的な排出削減目標を設定し、その実現に向けて様々な施策を講じています。その中でも、社内カーボンプライシング(Internal Carbon Pricing: ICP)は、企業の意思決定プロセスに炭素コストを組み込むことで、脱炭素投資や事業変革を加速させる有効なツールとして注目されています。
ICPは、将来的な炭素価格の上昇リスクを織り込んだり、社内の排出削減インセンティブを高めたりすることを目的として導入されます。しかし、具体的な導入にあたっては、価格設定、適用範囲、運用方法、効果測定など、多くの課題に直面します。本稿では、先進的な取り組みを進める企業の事例を通じて、ICPの具体的な導入プロセス、直面した課題とその解決策、そして得られた効果や成功要因を掘り下げ、貴社の脱炭素戦略策定の示唆を提供いたします。
事例:大手製造業における社内炭素税方式の導入プロセス
ここでは、グローバルに事業を展開する大手製造業であるA社が、投資判断の高度化と事業部門の行動変容を促す目的で社内カーボンプライシングを導入した事例を取り上げます。A社は、エネルギー集約型の製造プロセスを持ち、Scope 1, 2排出量が多いことに加え、広範なサプライチェーンにおけるScope 3排出量の削減も重要な課題として認識していました。
具体的な取り組み内容
A社が採用したのは、社内炭素税(Internal Carbon Tax)方式とシャドープライシング(Shadow Pricing)方式の組み合わせです。
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目的と範囲の明確化:
- 主目的:新規設備投資やM&Aにおけるリスク評価への炭素コストの組み込み(シャドープライシング)、および事業部門の排出量削減に対する意識向上と具体的な削減策への投資促進(社内炭素税)。
- 適用範囲:グローバル全拠点のScope 1およびScope 2排出量に社内炭素税を適用。新規投資案件については、Scope 1, 2に加え、重要と判断されるScope 3排出量(例:購入した製品・サービス、輸送)も評価対象とするシャドープライシングを適用。
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価格設定:
- 社内炭素税:まず$50/t-CO2eから開始。これは、SBT達成に必要な削減ペースと、今後想定される世界の主要な炭素価格水準を参考に決定されました。徴収された税収は、再生可能エネルギー導入や省エネルギー設備への投資ファンドとして再利用されます。
- シャドープライシング:中長期の価格シナリオを考慮し、$100/t-CO2e~$250/t-CO2eのレンジで設定。投資回収期間やプロジェクトの性質に応じて異なる価格が使用されます。
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運用プロセス:
- 社内炭素税:各事業部門は、四半期ごとに報告される排出量に基づき、炭素税を計算し、社内ファンドに納付します。排出量データの収集・検証プロセスには、既存の環境報告システムを活用し、信頼性を高めました。税額は事業部門のP/Lに費用として計上されます。
- シャドープライシング:新規投資案件の財務評価を行う際、従来のNPV(正味現在価値)計算に加え、想定される排出量に対する炭素コストをシャドープライスで計算し、リスクとして加算します。これにより、炭素効率の高い投資案件が財務的にも有利になるように誘導します。
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組織体制と連携:
- サステナビリティ推進部門が中心となり、財務部門、経理部門、各事業部門、技術部門と密接に連携して導入・運用を進めました。特に財務部門との連携は、投資評価プロセスへの組み込みにおいて不可欠でした。
- 各事業部門には、排出量削減目標と連動したインセンティブが導入され、炭素税負担の低減が事業成績の一部と見なされるようにしました。
定量的な成果
ICP導入後、A社では以下の定量的な成果が見られました。
- 投資判断への影響: 導入後の新規投資案件において、シャドープライシングによる評価が加味された結果、再生可能エネルギー利用プロジェクトや高効率設備への投資承認率が約15%増加しました。一方、排出原単位の高い化石燃料関連設備への投資は抑制される傾向が見られました。
- 排出量削減: 社内炭素税導入後1年間で、適用範囲であるScope 1, 2の排出量が全社平均で約3%削減されました。これは、事業部門が炭素税負担を回避するために、照明のLED化、高効率インバーターの導入、製造プロセスの最適化といった省エネルギー対策への投資を加速させたためです。
- コスト削減効果: 徴収された炭素税を原資とした投資ファンドを通じて実行された省エネルギー投資により、年間約2%のエネルギーコスト削減が実現し、炭素税負担の一部を相殺する効果が見られました。
- 新たな収益源/競争優位性: 低炭素製品・サービス開発への社内投資が増加し、市場における環境配慮型製品のラインナップ拡充につながりました。これは、将来的な市場ニーズや規制強化に対応する競争優位性の構築に貢献しています。
直面した課題と解決策
ICP導入・運用において、A社はいくつかの課題に直面しましたが、以下のように乗り越えました。
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課題1:価格設定の妥当性と変動性への懸念
- 当初、設定価格が高すぎると事業部門の負担が大きくなりすぎ、低すぎると行動変容効果が薄れるという懸念がありました。また、将来の炭素価格の不確実性も課題でした。
- 解決策: 段階的な価格引き上げ計画を策定し、まず$50/t-CO2eで開始して様子を見つつ、数年後に価格を見直す方針としました。また、価格設定の根拠(SBT達成に必要な削減コスト、外部予測、ピア企業の動向など)を丁寧に社内共有し、透明性を確保しました。シャドープライシングについては、複数の価格シナリオを設定し、感度分析を行うことで不確実性に対応しました。
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課題2:事業部門からの抵抗と理解促進
- 事業部門からは、新たなコスト負担や業務負荷(排出量計算、税額計算)に対する抵抗がありました。
- 解決策: ICPの導入目的が全社の脱炭素目標達成と将来的な企業価値向上にあることを、経営層からのメッセージとして繰り返し発信しました。また、徴収した炭素税がどのように活用され、事業部門の脱炭素投資に還元されるのか、具体的な事例や成功ケースを共有しました。排出量計算や納付のプロセスを可能な限り簡素化し、経理部門と連携してサポート体制を構築しました。
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課題3:データ収集と排出量計算の精度確保
- グローバル拠点間での排出量データ収集方法のばらつきや、Scope 3排出量の計算におけるデータ不足が課題でした。
- 解決策: 全社的な排出量データ収集・管理ガイドラインを策定し、担当者向け研修を実施しました。既存の環境報告システムを改修し、データ入力の標準化と自動化を進めました。Scope 3については、まずはデータが入手可能なカテゴリー(例:出張、輸送)から適用を開始し、サプライヤーエンゲージメントなどを通じて徐々に適用範囲と精度を高めていくアプローチをとりました。
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課題4:効果測定の難しさ
- ICP導入による排出削減効果や投資行動への影響を、他の施策や外部要因と区別して定量的に評価することが容易ではありませんでした。
- 解決策: ICP導入前後の投資承認トレンドや排出量データを比較分析しました。また、事業部門へのヒアリングやアンケートを実施し、ICPが意思決定に与えた影響を定性・定量両面から把握しようと試みました。ICP関連投資ファンドからの支出と、それによる具体的な省エネ・再エネ導入プロジェクトの進捗を追跡しました。
成功要因と戦略的示唆
A社のICP導入事例から、他の企業が学ぶべき成功要因と戦略的示唆は以下の通りです。
- 成功要因1:明確な目的設定と経営層の強いコミットメント
- ICP導入の「なぜ」を明確にし、全社目標との連動性を強く打ち出したことが、各部門の理解と協力を得る上で最も重要でした。経営層が積極的に導入を推進し、メッセージを発信し続けたことも成功の鍵です。
- 成功要因2:現実的かつ戦略的な価格設定と柔軟な運用
- 最初から完璧な価格を目指すのではなく、現実的な価格でスタートし、段階的に見直すアプローチが導入のハードルを下げました。複数の価格方式(社内炭素税とシャドープライシング)を組み合わせることで、目的に応じた使い分けができたことも効果的でした。
- 成功要因3:データ管理体制の強化と既存システム活用
- 正確な排出量データがICP運用の基盤となります。既存システムの改修やガイドライン整備によって、データ収集・計算の精度と効率を高めたことが円滑な運用を支えました。
- 成功要因4:部門間連携とインセンティブ設計
- サステナビリティ部門だけでなく、財務、経理、事業部門が連携した体制を構築し、事業部門に排出削減努力に対するインセンティブ(例:炭素税負担の軽減、削減目標達成への評価)を設計したことが、行動変容を促しました。
これらの事例から得られる戦略的示唆は、以下の点に集約されます。
- 目的と範囲の明確化: 自社の経営課題と脱炭素目標に基づき、ICPを何のために導入するのか(投資判断、行動変容、リスク管理など)、どの範囲(Scope 1, 2, 3、どの事業・拠点)に適用するのかを具体的に設定することが、その後の設計において最も重要です。
- 価格設定のアプローチ選択: 社内炭素税、シャドープライシング、内部排出枠取引など、自社の組織文化や目的に合ったアプローチを選択し、価格設定の根拠を論理的に説明できるように準備することが必要です。最初は保守的な価格で始め、運用状況を見ながら段階的に引き上げることも有効な戦略です。
- データ管理とシステム連携: ICPは正確な排出量データに基づいて運用されます。既存の環境データ管理システムや財務システムとの連携を検討し、データ収集・計算プロセスの効率化と精度向上に取り組むことが不可欠です。
- 組織横断的な推進体制とコミュニケーション: ICPは全社的な取り組みであり、サステナビリティ部門単独での推進は困難です。財務部門や事業部門を巻き込み、導入の意義やメリット、運用方法について丁寧かつ継続的にコミュニケーションを行うことが成功の鍵となります。
- 柔軟な運用と継続的な見直し: ICPの設計や運用は、導入後も継続的に評価し、改善していく必要があります。価格水準、適用範囲、運用プロセスなどを定期的に見直し、実効性を高めていく姿勢が求められます。
結論:脱炭素経営を加速させるツールとしてのICP
社内カーボンプライシングは、単なる環境対策ではなく、企業の財務戦略や事業戦略に脱炭素の視点を組み込み、将来的な競争力を強化するための強力なツールとなり得ます。導入プロセスにおいては、価格設定、データ管理、部門間連携など様々な課題に直面する可能性がありますが、明確な目的意識、経営層のコミットメント、そして関係部門との緊密な連携を通じて、これらの課題を乗り越えることが可能です。
本事例が示すように、ICPは投資判断を変え、事業部門の排出削減努力を促し、新たな低炭素ビジネスの創出につながる具体的な効果をもたらします。貴社が脱炭素経営をさらに具体化し、実践していく上で、ICPの導入は戦略的な選択肢の一つとなるでしょう。自社の状況に合わせて、目的と手段を慎重に検討し、導入への第一歩を踏み出すことが期待されます。