産業ガス大手の脱炭素戦略:コアアセットを核とした水素サプライチェーン・新規ソリューション事業創出事例
脱炭素経営の実現は、多くの企業にとって喫緊の課題です。特に重厚長大産業や製造業においては、エネルギー転換やプロセス改善が不可欠となります。その中で、産業ガス分野のグローバル大手企業は、既存の技術力と広範な顧客基盤、インフラネットワークを活かし、脱炭素市場における新たなリーダーシップを確立しようとしています。本稿では、産業ガス大手がどのようにそのコアアセットを活用し、水素サプライチェーンの構築や革新的な脱炭素ソリューション事業を展開しているのか、その具体的な取り組みと戦略的な示唆についてケーススタディとして深く掘り下げます。
産業ガス分野における脱炭素の重要性と事業機会
産業ガスは、鉄鋼、化学、電子、医療、食品など、多様な産業プロセスに不可欠な酸素、窒素、アルゴン、水素、ヘリウム、特殊ガスなどを供給しています。これらのガスの製造、精製、輸送、貯蔵、利用にはエネルギーを消費し、CO2排出が伴う一方で、脱炭素社会の実現に向けては、以下のような点で産業ガス企業の役割が拡大しています。
- 水素の供給: グリーン水素や低炭素水素の製造・供給は、産業燃料、モビリティ、電力貯蔵など、様々な分野の脱炭素化を加速させる鍵となります。産業ガス企業は、長年培ってきた水素製造・精製・貯蔵・輸送技術とインフラの専門性を有しています。
- CCUS (Carbon Capture, Utilization and Storage): CO2の分離・回収・精製・輸送技術は、産業ガス企業が空気分離プラントなどで培ってきたコア技術と親和性が高い領域です。回収したCO2を有効利用(e.g., 化学品原料、合成燃料、EOR: enhanced oil recovery)したり、安全に貯留したりするビジネスは新たな収益源となります。
- 産業プロセス効率化: 酸素富化燃焼による燃料効率向上、窒素による雰囲気制御での歩留まり向上やエネルギー削減など、ガス供給と併せて提供するプロセス改善ソリューションは、顧客企業のCO2排出削減に直接的に貢献します。
グローバル産業ガス大手企業は、これらの事業機会を捉え、既存のガス供給事業を脱炭素ソリューション事業へと進化させる戦略を推進しています。
具体的な取り組み内容:コアアセットの戦略的活用
グローバル産業ガス大手が展開している脱炭素関連の具体的な取り組みは多岐にわたりますが、主に以下の点に集約されます。
1. 水素バリューチェーンの構築強化
既存の水素製造技術(主に天然ガス改質)に加え、低炭素・脱炭素水素製造への大規模投資を進めています。
- グリーン水素製造: 再生可能エネルギー由来の電力を用いた水電解プラントの建設。顧客の敷地内(オンサイト)や、再生可能エネルギー発電所の近く(オフサイト)での大規模プロジェクトを推進しています。メガワット級からギガワット級のプロジェクトに参画し、製造能力を大幅に拡大しています。
- ブルー水素製造: 天然ガス改質等で発生するCO2をCCUS技術で回収・貯留するブルー水素製造も並行して進めています。これは、グリーン水素が経済的に成立するまでの移行期間における現実的な選択肢として位置づけられています。
- 水素貯蔵・輸送・供給インフラ: 圧縮水素トレーラー、液化水素タンカー、パイプライン網といった既存アセットに加え、より効率的・大規模な輸送(e.g., 液化水素、アンモニアキャリア)技術の開発・投資、高圧貯蔵技術、水素ステーションネットワークの構築などを推進しています。特定の産業集積地や港湾地域に「水素ハブ」を形成し、複数の需要家への安定供給を目指しています。
2. CCUS技術・ソリューションの提供
産業排ガスからのCO2分離・回収技術(PSA: Pressure Swing Adsorption,膜分離、吸収法など)を提供し、顧客の排出量削減を支援しています。
- CO2回収プラントの設計・建設・運用: 製鉄所、火力発電所、化学プラント、セメント工場など、大口排出源向けにカスタマイズされたCO2回収ソリューションを提供しています。回収したCO2の純度を高め、パイプラインや船舶での輸送に適した状態にする技術も含まれます。
- 回収CO2の有効利用: 回収したCO2を、化学品(メタノール、尿素)、合成燃料(e-fuel)、建築材料、農業(植物工場)などの原料として利用する技術開発やプロジェクトに参画しています。これは、単なる排出削減に留まらず、新たな循環型ビジネスモデルの構築につながります。
- CO2輸送・貯留インフラへの参画: 回収したCO2を安全な貯留場所(e.g., 枯渇油ガス田、帯水層)へ輸送するためのパイプラインや船舶の計画・建設、貯留サイトの開発・運用にも関与しています。
3. 産業プロセス効率化ソリューションの高度化
顧客の製造プロセス全体を分析し、ガスの特性を活かしたエネルギー効率改善や低炭素化ソリューションを提供しています。
- 酸素富化燃焼システム: 燃焼炉への酸素供給量を最適化することで、燃料使用量を削減し、NOx排出抑制や生産性向上にも貢献します。
- 雰囲気制御技術: 熱処理プロセスなどにおける窒素やその他のガスの精密な雰囲気制御により、不良率低減、エネルギー消費削減を実現します。
- 排熱回収・有効利用: 産業ガスプラントや顧客サイトで発生する排熱を回収し、発電や地域の熱供給に活用するシステムを構築しています。
これらの取り組みは、単にガスを販売するだけでなく、顧客の脱炭素目標達成に向けた包括的なソリューションプロバイダーへの転換を意味します。サービス契約や長期PPA(Power Purchase Agreement)に近いモデルでの事業提供も増加しています。
定量的な成果
これらの取り組みは、企業自身の排出量削減に加え、顧客企業の排出量削減や新たな収益機会の創出に大きく貢献しています。
- CO2削減貢献量: 主要な産業ガス大手は、顧客へのソリューション提供を通じて、年間数百万トンから数千万トン規模のCO2削減に貢献していると報告しています。特定のCCUSプロジェクトでは、年間数百万トンのCO2回収能力を持つプラントが稼働しています。
- 新規事業売上: 脱炭素関連ソリューション(水素、CCUS、効率化サービス)からの売上が全体の売上高に占める割合が年々増加しており、新たな成長ドライバーとなっています。一部の企業では、数年後の新規契約の大部分が脱炭素関連になるとの見通しを示しています。
- 投資額: グローバル産業ガス大手各社は、今後数年間でグリーン水素やCCUS関連に数十億ドル規模の投資計画を発表しており、これは従来の設備投資とは異なる戦略的な大型投資です。
- エネルギー効率: 顧客サイトにおけるプロセス改善ソリューション導入により、エネルギー消費量が平均10%~30%削減された事例も報告されています。
直面した課題と解決策
これらの大規模な戦略転換と新規事業創出には、いくつかの重要な課題が存在します。
-
課題1:コスト競争力
- 直面した課題: グリーン水素の製造コストは、天然ガス由来のグレー水素に比べて依然として高く、需要家の導入障壁となっています。CCUSも設備投資や運用コストが大きく、経済性が課題です。
- 解決策:
- 技術開発・規模拡大: より効率的な水電解装置の開発や、大規模プラント建設によるスケールメリット追求。
- 再生可能エネルギーの安定調達: 長期PPA契約や自己所有の再エネ発電設備への投資により、低価格で安定した再生可能エネルギー電力を確保します。
- 政策支援・インセンティブの活用: 各国の政府による補助金、税制優遇、カーボンプライシング導入などを最大限に活用し、事業の経済性を向上させます。
- 需要家との長期契約: 大口需要家との長期供給契約を締結し、安定した収益基盤を構築することで、大規模投資のリスクを軽減します。
-
課題2:インフラ構築の複雑性
- 直面した課題: 水素パイプライン網やCO2輸送・貯留インフラの構築には、巨額の初期投資、長期のリードタイム、許認可プロセス、地域住民との合意形成など、複雑な課題が伴います。
- 解決策:
- 段階的アプローチ: まずは既存のインフラ(e.g., 工場内パイプライン、鉄道、船舶)を最大限に活用しつつ、需要が見込める産業集積地などで小規模なハブを構築。需要拡大に合わせてインフラを拡張する段階的な投資戦略をとります。
- パートナーシップとコンソーシアム: 他のガス会社、エネルギー企業、インフラ企業、エンドユーザーと連携し、共同でインフラプロジェクトを推進します。これにより、投資リスクを分散し、専門知識やリソースを共有します。
- 標準化と技術開発: 水素やCO2の貯蔵・輸送に関する国際的な標準化活動に積極的に関与し、安全かつ効率的な技術の開発・普及を推進します。
-
課題3:社内組織・文化の変革
- 直面した課題: 長年の「ガス供給業者」としてのビジネスモデルから、「脱炭素ソリューションプロバイダー」への転換は、組織構造、人材スキル、評価システム、企業文化に大きな変化を求めます。
- 解決策:
- 経営層の強力なリーダーシップ: トップダウンでの明確なビジョンと戦略を提示し、全社的な変革を推進します。
- 部門横断的なチーム組成: 技術開発、エンジニアリング、営業、プロジェクト管理など、異なる部門の専門家を集めた専任チームを立ち上げ、迅速な意思決定と実行を可能にします。
- 人材育成と採用: エネルギーシステム設計、再生可能エネルギー連携、デジタルソリューション開発など、新たな専門知識を持つ人材の育成プログラムを強化し、外部からの専門家採用も積極的に行います。
- インセンティブ設計: 従業員の評価システムに脱炭素関連の目標達成度を組み込むなど、新しいビジネスモデルへの貢献を評価する仕組みを導入します。
成功要因と戦略的示唆
グローバル産業ガス大手の脱炭素戦略が成功を収めている要因は、以下の点にあります。
- コアコンピタンスの戦略的活用: 長年培ってきたガス製造・精製・貯蔵・輸送・利用技術と、安全かつ安定的な供給を支える運用ノウハウは、水素やCCUSといった脱炭素関連技術と高い親和性があります。この既存の強みを新しい市場ニーズに合わせて再定義し、活用している点が成功の基盤です。
- バリューチェーン全体でのリーダーシップ: 単に技術や製品を販売するだけでなく、製造から輸送、貯蔵、そして顧客サイトでの利用・プロセス最適化まで、脱炭素バリューチェーンの複数の段階で自社の役割を定義し、必要なインフラやサービスを統合的に提供しようとしています。
- 長期的な視点での大規模投資: 脱炭素市場の本格的な立ち上がりには時間がかかることを認識し、短期的な収益性だけでなく、将来的な成長と市場シェア獲得を見据えた長期的な視点で、研究開発と設備投資を継続しています。
- 戦略的パートナーシップの構築: 再生可能エネルギーデベロッパー、大手エネルギー企業、産業顧客、技術ベンダー、政府機関など、多様なステークホルダーとの連携を通じて、自社単独では実現困難な大規模プロジェクトや複雑なエコシステム構築を可能にしています。
- 顧客ニーズへの対応力: 顧客企業の業種、規模、脱炭素段階に応じたカスタマイズされたソリューションを提供することで、顧客の具体的な課題解決に貢献し、信頼関係を構築しています。
これらの事例は、他の大手企業、特に既存の技術やインフラ、顧客基盤を持つ企業にとって、脱炭素経営を単なるコストやリスクと捉えるのではなく、既存アセットを再評価し、新たな事業機会や収益源へと転換する可能性を示唆しています。自社のコアコンピタンスが、脱炭素社会でどのような価値を生み出せるのかを深く分析し、バリューチェーンのどこでリーダーシップを取れるかを戦略的に判断することが重要です。また、大胆な投資判断、異業種との連携、そして社内変革への強いコミットメントが不可欠であることを教えてくれます。
結論
グローバル産業ガス大手の脱炭素戦略は、既存の技術力とインフラを基盤としつつ、水素サプライチェーン構築やCCUS、プロセス効率化といった新たなソリューション事業へと積極的に事業ポートフォリオを転換している成功事例と言えます。グリーン水素製造の高いコスト、大規模インフラ構築の複雑性、組織変革といった課題に直面しながらも、技術開発、戦略的パートナーシップ、政策活用、そして何よりもコアコンピタンスの戦略的活用によってこれを乗り越えようとしています。
このケーススタディは、他の産業分野の大手企業、特にサステナビリティ推進部門の責任者や担当者にとって、自社の持つ既存アセットや強みをどのように脱炭素経営に活かし、新たな事業成長に繋げていくかという戦略立案において、実践的かつ重要な示唆を与えるものです。脱炭素は、自社の変革を通じて、新たな市場創造と持続的な競争優位性を確立する機会となり得るのです。