グリーン水素を化学品原料に活用:大手企業のサプライチェーン脱炭素と新ビジネス創出事例
脱炭素経営への移行は、あらゆる産業において喫緊の課題となっています。特に、製造プロセスで大量のエネルギーや化石燃料由来の原料を使用する化学産業では、CO2排出量削減が事業継続の生命線とも言えます。その中で、再生可能エネルギー由来の電力で水を電気分解して製造されるグリーン水素は、脱炭素化に向けた重要な選択肢として注目を集めています。
本稿では、大手化学メーカーがどのようにグリーン水素を従来の化石燃料由来原料の代替として活用し、脱炭素化と新たなビジネス機会創出の両立を目指しているのかについて、具体的なケーススタディを通して分析します。
事例企業の概要と脱炭素への挑戦
今回取り上げるのは、基礎化学品から機能性素材まで幅広く手掛けるグローバル化学メーカーA社です。A社は、石油化学由来の製品製造プロセスにおいて、アンモニアやメタノールなどの製造に大量のグレー水素(天然ガス等を改質して製造される水素)を使用しており、これがScope 1排出量の大きな要因となっていました。加えて、化石燃料価格の変動リスクや、将来的な炭素税・排出量取引制度の強化を見据え、抜本的な脱炭素戦略の実行が求められていました。
A社は、2050年カーボンニュートラル目標の達成に向け、エネルギー効率改善、再生可能エネルギー電力の導入、そして原料転換の三本柱で戦略を推進。特に原料転換においては、グリーン水素を主要な代替候補と位置づけ、既存の製造プロセスへの導入プロジェクトを立ち上げました。
グリーン水素原料転換の具体的な取り組み
A社は、主要製品であるアンモニアの製造プロセスにおいて、段階的にグリーン水素を導入するプロジェクトを開始しました。
- 技術実証とパイロットプラント: まず、再エネ電力を用いた水電解装置を導入し、小規模なパイロットプラントでグリーン水素製造の技術実証を行いました。既存のアンモニア合成プロセスへの影響や、必要となる水素の純度、供給安定性に関する知見を蓄積しました。特に、アルカリ水電解(AWE)と固体高分子膜電解(PEMWE)の両技術を比較検討し、自社の求めるスケールや稼働条件に適した技術選定を進めました。
- 再エネ電力の確保: グリーン水素製造に不可欠な再エネ電力については、長期安定供給を目指し、複数の発電事業者と大規模なコーポレートPPA(電力購入契約)を締結しました。国内外の自社工場近郊で開発される太陽光発電や陸上風力発電プロジェクトからの直接的な電力供給契約に加え、再エネ電力証書(I-RECなど)の活用も視野に入れています。
- 大規模プラントへの適用計画: パイロットプラントでの成功を踏まえ、既存のアンモニア製造プラントの一部を改修し、グレー水素とグリーン水素の混合供給による製造を開始しました。最終的には、プラント全体の水素需要をグリーン水素で賄うための大規模電解装置の導入や、水素輸送のためのインフラ整備(パイプライン、液化水素貯蔵・輸送技術など)を計画しています。
- サプライチェーン連携: グリーン水素の安定供給とコスト効率の最適化のため、再エネ発電事業者、水素製造事業者、輸送関連事業者との強固なパートナーシップ構築を進めています。例えば、大規模な洋上風力発電所からの電力を用いたグリーン水素製造拠点との長期購入契約や、既存のガスパイプラインへの水素混合輸送の可能性に関する共同検討などを行っています。
- グリーン製品の価値創出: グリーン水素を用いて製造された低炭素アンモニアは、「グリーンアンモニア」として新たな市場での展開を目指しています。肥料用途だけでなく、船舶燃料、火力発電所の混焼燃料、さらには他の化学品原料としても、脱炭素ニーズを持つ顧客への供給を開始しました。
定量的な成果
この取り組みにより、A社はいくつかの定量的な成果を得ています。
- CO2排出量削減: パイロットプラントおよび既存プラントへの部分的導入段階で、年間約数万トンのCO2排出量削減効果を確認しました。大規模プラントへの完全転換が完了すれば、対象製品の製造におけるScope 1排出量は、従来比で70%以上の削減が見込まれています。工場全体の排出量に対しても、顕著な削減貢献が期待されています。
- コスト効率: 現時点では、グリーン水素の製造コストはグレー水素に比べて依然として高い水準にあります。しかし、再エネ電力価格の長期PPAによる固定化、水電解装置の技術進歩とスケールメリット、そして将来的な炭素価格の上昇を考慮すると、長期的なコスト競争力は向上すると試算されています。また、グリーン製品としての付加価値により、一部コストアップを吸収することも可能となっています。
- 新たな収益源と市場競争力: グリーンアンモニア市場への参入は、新たな顧客層を開拓し、事業ポートフォリオの多様化に繋がっています。特に、環境意識の高い産業分野や、厳格な排出規制が導入されている地域において、A社の競争優位性が確立されつつあります。プロジェクト開始以来、グリーンアンモニアに関する引き合いは増加傾向にあり、数年内に新たな収益の柱の一つとなる見込みです。
直面した課題と解決策
グリーン水素の原料転換は容易ではなく、A社は様々な課題に直面しました。
- 課題1:グリーン水素の高い製造コスト
- 初期段階では、水電解装置のコストや再エネ電力の調達コストがグレー水素製造コストを大きく上回っていました。
- 解決策:
- 政府や自治体の補助金制度を積極的に活用し、初期投資負担を軽減しました。
- 複数の再エネ事業者と交渉し、競争力のある長期PPAを締結しました。
- 技術ロードマップに基づき、装置の大型化や効率向上による将来的なコストダウンを見越した投資判断を行いました。
- 製造したグリーンアンモニアを差別化製品として高付加価値で販売し、一部コストを転嫁しました。
- 課題2:大規模かつ安定的なグリーン水素供給網の構築
- 自社でのグリーン水素製造能力には限界があり、大規模な原料転換には外部からの安定供給が不可欠でした。また、製造拠点と工場間の輸送方法も課題でした。
- 解決策:
- 国内外の潜在的な水素サプライヤー候補と早期から連携し、長期供給契約の交渉を進めました。
- 水素パイプラインの整備計画がある地域では、その活用可能性を検討し、関連団体と情報交換を行いました。
- 既存の物流網(高圧トレーラー、鉄道など)を当面活用しつつ、将来的に効率的な輸送手段(液化水素、アンモニア変換、LOHCなど)への投資や共同開発を視野に入れています。
- 複数の供給源を確保することで、リスク分散を図りました。
- 課題3:既存プラント設備の適合性評価と改修
- 従来のアンモニア製造プラントは、グレー水素の使用を前提に設計されており、グリーン水素の導入にあたり設備の微調整や改修が必要となりました。
- 解決策:
- 詳細なエンジニアリングスタディを実施し、必要な改修箇所(圧縮機、触媒、制御システムなど)を特定しました。
- パイロットプラントでの実証結果に基づき、段階的な改修計画を策定し、製造ラインの停止期間を最小限に抑える工夫を行いました。
- 主要設備メーカーと密に連携し、グリーン水素対応の技術支援やカスタマイズを依頼しました。
成功要因と戦略的示唆
A社のグリーン水素原料転換プロジェクトが成功を収めている要因は複数あります。
- 経営層の明確なビジョンと強いコミットメント: 単なる環境規制対応としてではなく、エネルギー安全保障、コスト競争力、そして将来の事業成長機会と捉え、経営層が長期的な視点で大規模な投資判断を行ったことが最大の要因です。
- 技術革新と既存技術の融合力: 水電解技術や再エネ統合技術といった新しい技術への投資と知見獲得に加え、長年培ってきた化学プラント運転技術やプロセス設計技術を組み合わせることで、実現可能性を高めました。
- 戦略的なパートナーシップ構築: 自社だけでは解決できない課題(再エネ調達、水素供給、物流など)に対し、外部の専門知識やアセットを持つ企業と積極的に連携し、強固なサプライチェーンを共同で構築したことが成功に繋がっています。
- 市場ニーズへの先行的な対応: 低炭素製品への顧客ニーズが高まることを見越し、早期にグリーン製品のポートフォリオを拡充したことで、新たな市場での優位性を築くことができました。
- 段階的なアプローチとリスク管理: 全てを一度に行うのではなく、技術実証からパイロット、そして大規模導入へと段階的に進めることで、技術的・経済的なリスクを管理しつつ、知見を蓄積していきました。
これらの事例は、他の大手企業、特に製造業やエネルギー関連産業における脱炭素戦略を立案・推進する上で、以下の戦略的示唆を提供します。
- 脱炭素をコストではなく投資と捉える: 初期投資や運用コストは増加する可能性がありますが、将来的な規制強化、炭素価格上昇、そして新たな市場獲得によるリターンを見据えた長期的な視点での投資判断が重要です。
- バリューチェーン全体での連携強化: 自社単独での対応には限界があります。再エネ供給者、原料サプライヤー、物流事業者、顧客など、バリューチェーン上の多様なプレイヤーとの連携を通じて、持続可能なサプライチェーンを構築する能力が求められます。
- 新しい技術への積極的な知見獲得と既存技術との融合: 水素、CCUS、デジタル技術など、脱炭素に貢献する新しい技術動向を常に把握し、自社の既存技術やアセットとどのように組み合わせるかを戦略的に検討する必要があります。
- 段階的な実行とリスク管理: 大規模な変革はリスクを伴います。技術実証やパイロットプロジェクトを通じて知見を蓄積し、段階的に規模を拡大していくアプローチは有効です。
結論
大手化学メーカーA社の事例は、グリーン水素を化学品原料として活用することが、技術的、経済的、そして戦略的に実現可能であることを示しています。高いハードルは存在するものの、経営層の強い意志、技術革新への投資、戦略的なパートナーシップ、そして市場ニーズへの先行的な対応といった要素が組み合わさることで、脱炭素と事業成長の両立は現実のものとなります。
サステナビリティ推進部門の皆様にとって、本稿のケーススタディが、自社の脱炭素戦略、特に原料転換や新しい技術導入に関する具体的な検討や意思決定の一助となれば幸いです。グリーン水素を含む様々な脱炭素技術は進化を続けており、今後も国内外の先進事例から学び続けることが重要です。